考えることが好きだという話
〈考えることが好きだという話〉
ぼくは考えることが好きだ。
でも、無駄なことを考えることは好きではない。考えるべきことや考えていて楽しいことはすすんで考えられるが、「これを考えて何の意味があるんだろう?」ということに関してはかなりドライだ。かなり自分勝手な言い方だが、まあ、考えるという行為自体がかなり個別的な問題なので、特に大きな問題にはならないだろう。
ぼくが考えることが好きになったのは、大学に入学したての「教育学概論」という授業をとっていた時のことだ。それまでのいわゆる受験勉強というものに嫌気がさしていて、暗記や情報を処理する、つまりそんなドリル型学習にいったい何の意味があるんだろうと思っていたぼくにとって、考えることが大切になる大学の授業はいささか新鮮だった。でも、大学の授業を受けていて思うことがあったのも事実。でもここでは関係のないことなので、それについては触れない。
さて、その「教育学概論」という授業の中で、19歳のぼくは、「学校って何だろう?」という疑問をもったのを今でも鮮明に覚えている。思えばその時から教育学に興味をもって、教育学専攻にしようと思っていた。(教育心理学専攻と迷っていたが、結局教育学専攻にした。)そんな疑問をもってから、図書館に行って苅谷先生の『学校って何だろう』を読んだり、学校史や教育時事について調べたりしたのが懐かしい。そのときは今ほど思ってはいなかったが、考えることが楽しかったんだと思う。
そして、2回生のころ、考えることが本格的に好きになって、考えることについていろいろやってみたいなあと思っていた時に出会ったのが、外山先生の『思考の整理学』だった。そこに書かれていた内容は、考えることが好きな自分にとってどれも新鮮だったし、なるほどやってみようと思えることばかりだった。「放っておく」「寝させる」「捨てる知識を選ぶ」「抽象のハシゴを登る」などといった視点は当時すごく面白くて、黙々と読みふけっていた。
それから新聞の切り抜きをはじめたり、スクラップブックをつくったり、とにかくやれそうなことをいろいろやっていた。それが役に立っているかどうかはわからないが、意味はあったと思う。
大学入学から8年、今でも考えることが好きだし、その対象もいろいろ広がったと思う。
そんな今だからこそ、この本を読んで、考えることに夢中だった時のことを思い出しながらこれからも考えていきたいと思う。