先生の放課後と休み時間

学びは「はてな」から始まる、日々のくらしの中から見つけた「はてな」を記録するブログ。

伊那小学校 公開学習指導研究会 振り返り

今日は、伊那小学校の公開学習指導研究会に参加した。「内から育つ」というテーマで、子どもは自ら求め、自ら決め出し、自ら動き出す力をもっている存在であるという子ども観にたち、子どもたちの求めや願いから学習を展開していくことで、子ども自身に学ぶ力が育ち、主体的な学習が創造できると考えている伊那小学校。

 本校では、総合学習・総合活動を中核に据えた教育課程を編成し、子どもとともに創り出す授業を実現しようと研究実践を積み重ねている。

 本年度は研究サブテーマを「自らのあゆみのなかで、思いがあふれ出ていく子ども」と定め、一人ひとりの子どもがその子らしく対象と向き合い、思いをため込みながらあゆむなかで、やらずにはいられず、自ら動き出した子の内に何が起きているのかをさぐりながら、「内から育つ」子どもに迫ろうと研究を続けてきた伊那小学校。

 さて、事前視聴期間に授業動画を2本視聴した。一年生のおなかの中に赤ちゃんがいるかもしれないぶたの「ぶうちゃん」と子どもたちがどのようにかかわりをもっていくのかにせまった実践。四年生の水槽のアマゴをなかよし池にうつすにあたって子どもたちがどのように活動するのかにせまった実践。

 それぞれについて思うことはあるのだが、正直、唖然とした。自分が考えていた「子ども主体」のいかに甘い考え方であるかを思い知らされた。ぼくたちは子どもの問いから授業をつくるとか、子どもの言葉で授業をつくるとか、子どもを主体に授業を展開しようと試みてきたし、これから先もそうした授業を考えていきたいと思うかもしれない。そうした思いや試みはすてきだと思うし、考えていくべきことだとは思う。しかし、中身はどうか。本当に子ども主体になっているんだろうか。伊那小学校の実践を見ていた時、子どもたちがいかにのびのびと活動をしていたか、そこに教師の介入はほとんどなく、子どもの思いや願いを実現するための学習環境、学習要素の一つとしての教師の姿があったように思う。

 一年生の子どもたちは、ぶうちゃんにえさをあげたり、えさとなる野菜を切ったり、ほかにも小屋にわらをしいて、温度を高めようとする子など、同一時間内に異空間での異なる活動を行っていた。しかし、それでいて「ぶうちゃん」という共通のテーマを介して直接的、あるいは間接的にぶうちゃんとかかわり、たとえ、異空間、異なる活動をしていたとしても、そこでの学びはダイナミックにつながっていた。

 四年生のアマゴの引っ越し活動では、すいそうのアマゴを取り出すところから始まる。取り出すたびに友だちとああでもない、こうでもないと言いながら、アマゴを取り出す子どもたち。空気量や水量、酸素量などを考慮しながら、水槽からアマゴを取り出す子どもたちの姿と彼ら/彼女らの視線というか表情はまさに真剣そのものだった。いざなかよし池に放つときには、水温と、すいそうの水との温度の差を調節したり、放つ場所を意識した子どもの姿が大変印象的だった。

 2つの実践、それぞれに子どもの論理があって、それを見ていることがとてもすがすがしかった。伊那小学校の実践を見て自分自身をふりかえって見た時、ぼくは子どもたちの外側の姿(表面上にあらわれる姿)、つまりは子どもの「外」にばかり目を向けていたように思う。それだけではなくて、子どもの「内」の姿、見えているようで見えていないところ、などそうした一人ひとりの子どもに内在する思いや願いにまで、もっともっと迫る必要があると感じた。

 これはちょっとまずいなあ。子ども観の問い直し、子どもの内と外、まるごと子どもをとらえる、子どもにゆだねる、子どもの論理、子どもの思いや願い、などなど。これからのキーワードとなることをたくさんいただいた研究会であった。

 がんばります。

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