5年目教員の日々の学びと反省

学びは「はてな」から始まる、日々のくらしの中から見つけた「はてな」を記録するブログ。

学習指導案について

学習指導案

 校内研究授業で行う「垂直・平行と四角形」の指導案と、公開授業で行う「直方体と立方体」の指導案を同時並行で作成中。

 ぼくは、学習指導案をつくることについては、意味があることだと思っている。本単元で身に付けたい力は何なのか、どんな子どもの姿を描くのか、など、頭の中を整理して言語化することは、大変有意義であると考える。

また、授業の概要や授業者の思いなどを見る人に簡単にだが伝えるものとして、つまり見る側の人たちにとっても意味があるものだと思う。

誤解を恐れずに書くが、指導案をかくことについては意味があるとは思うけど、正直形式などはあまり意味がないなあと思う。一番大切なのは、授業者が自分がしたい授業を自分のしたいように言葉や図などで整理できているかなので、児童観はこう書きなさいとか、単元観は、教材観は・・・といったことは他人に強制されるべきではないと思っている。

まあ、そんなことを言いつつ書くのは書くんだけど、それでも自分にとって分かりやすい、自分の頭を整理することを第一義として指導案はつくるべきだ。

指導案ができれば、指導案検討会があるが、これもまた難題だ。指導案検討会は、内容に対するツッコみであれば、なるほどたしかに・・・と受け取ったり、そこはこういう意図があって・・・と再度自分の頭の中をふりかえることができるので、意味があることだとは思う。

しかし、ここでもこう授業すべきだ!などと他人から強制される筋合いはない。指導案をつくるまでに指導者なりの紆余曲折があるはずだから、授業者の思いを可能な限り尊重したうえで、助言をするべきだと思う。

ぼくも指導案検討会は何度かされたし、してきた。自分が検討する側の時は、つくった人に「先生が一番したいことは何ですか?」と聞くことがよくある。そして、それがわかったら、それをするためにこんなこともできそうだとか、こんな方向があるんじゃないかと伝えることはあるが、強制はしない。自分のやりたいことをやればいいと思うからだ。

検討された側としては、自分が提案した授業を、ごっそり変更されたことがある。これは自分がしたいことじゃないのに・・・という授業を研究授業でするときの気持ちはなかなかきついものがある(笑)今では苦くもいい思い出だが、指導案検討を通すことで、いや、通してしまったことで、そこに授業者が見えなくなることを何度か経験してきた。

何のための指導案か、何のための指導案検討か、力のあるものがその立場を顕示することが目的とならないように考え直したいものである。

さて、本時についてもうすこし考えてから指導案におこしていこうかな・・・。

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